甘える男

ほのかな土のにおいと陽の香りに、男所帯に似合った体臭が混じる。それは男のにおいだ。目の前の奴が街中を一人で歩いても誰にも迷子を心配されないような年齢であることの証。もうあの頃の柔らかい香りを纏わせる根本的な理由からはとっくの昔に遠ざかっているはずだ。なのに、何故か。自分のとは、他の奴とは違う甘さを鼻腔に感じるのは実際の奴の身体のどこか一部のせいなのか、惚れてる故の錯覚なのかは知らない。甘いにおいがする。土のにおいがするということはつまり今日も仕事をさぼって木陰で眠りこけていたという証拠で、それを咎めるとよくわかりましたねと一分の反省の念も交えず答えられる。土のにおいがすんだよ、と言えばさすが犬の飯を食うだけあって嗅覚もそれ並だとせせら嗤われる。むかついたので目と鼻の先にある耳たぶを摘めば抗議と非難の声があがり、仕返しとばかりに右の手の甲を抓られた。あまり痛くはない。左手の指でそのまま形のいい耳全体を弄り倒すと、不思議とだんだんいい気分になってきて止められなくなる。いい気分の原因は感触の心地よさと共に総悟の反応の方にもあって、時折感じる部分に当たったのかピクリと肩を震わせるのが愛しかった。これ以上戯れると「その」雰囲気に飲み込まれるという寸でのところで動きを止める。息を吐いた総悟はもう一度俺の手の甲を抓ったが、感覚としての痛みは増しても理由がさっきと違っているので精神的には全く痛くない。総悟の手が離れたところでもう一度身体を抱えなおし、ちょうどいい位置で固定する。何も言わぬ総悟のうなじに顔を埋めれば犬みたいだと呟かれ、犬が人間を抱きしめるかよ、と反論した。
「あとどれくらいですかい」
「……もうあと、二、三分」
「足りるんですかい、そんだけで」
「十分だ、つったら」
「ちょっと不本意でさァ」
その声に棘はない。総悟に甘えさせてもらっている。
「……嘘だ」
足りるかよ、と呟けば心なしか総悟の身体が弛緩したような気がして、ほっと息を吐く。総悟にどちらの意味かの答えは言っていない。総悟も俺にどちらの意味だったかは教えない。休憩時間が、足らない。総悟が、足らない。どちらも正解だからだ。違いがあるとすれば、前者は満足いく限りが存在するが、後者にはそれはない。
仕事で連日連夜眠らない生活をしょっちゅう送っている俺に、総悟はふらりとストッパーのように現れて休憩を促す時がある。いたぶる魚は活きの良いほうが楽しい、という普段通り自分本位な奴の言い分に対し、俺が普段通りの噛み付くような反応すらしないほど困憊している時に限って甘えさせてくる。その真意が読めるのなら苦労はしない相手であるが、あえて理由を考えるならば、総悟に似合わない反省の念からだろうか。そもそもこんなに机仕事が溜まっているのは大半がこいつのせいだ。日に日に濃くなってゆく己の目下の隈を見て、それをからかうことは多少あれど罪悪感も微少ずつなり蓄積していっているのかもしれない。
こんなことを想像しても全部的外れだったりする可能性があるのが、総悟という生き物だ。真意は掴めないものの、殺意や悪意からの行動ではないというのだけは感覚的に確かなことだった。
部屋を訪れてきて座った総悟は、眠気覚ましに銜えた煙草ですら打ち勝てないほどの疲労に吸い込まれそうになっている俺を眺めていつも同じ言葉を呟く。「ひでぇ顔でさァ」。その文字記号がまるで自分への許しの合図だとでもいうように俺の身体からは力が抜け、総悟に凭れ掛かってゆく。思考が眠気に食われて霞む。だとすれば本能故の行動だとでもいうのか。「アンタ、もうちっと気ぃ抜いてやったらどうなんですかィ」。そんな言葉もよく聞いた気がする。己の真意すら、定かではない。
総悟を後ろから抱きしめて目を閉じるこの体勢は、酷く落ち着く。奴の背中が包容力のある広い背中だからではない。しっかりとしているのに華奢で、身体ごとすっぽりと収まることに酷く安心する。
総悟を一人の男だと認識する時間よりも手のかかる餓鬼と考える時間の方が遥かに人生において長く、そしてその差が縮まることはそうそう容易ではないのだろう。
近藤さんのように幼かったこいつを負ぶってやったことは幾度かあったが、そのことを罪だと咎められたことは一度もなかった。自らを断罪しようと感じもしなかった。しかしどうだ、今のこの状況を罪だとされて、少なくとも俺は反論できない。総悟は酒を飲むし人を斬るがまだ未成年だ。そんな奴を文字通りすっぽりと囲って身動き取れなくさせているのは紛れもない自分で、その状態に心底安心しているのも自分で。性行為よりもずっと、こうして抱きしめたり、または手を繋いだりすることに言いようもなく罪を感じる。しかも不思議とその感覚が快いのだから手に負えない。
「手伝ってやりましょうか。報酬は高くつきますが」
「だったら遠慮しとくわ」
「アンタにとっても悪い報酬じゃないですぜ」
表情を見ていなくても、言いたいことはわかる。側頭部を掴んで此方を向かせ、柔らかい唇に口付けた。触れ合うだけの接吻をし離れ、言う。
「今後始末書を俺にまで回さないってんなら考えるぜ」
「自業自得だって言いてーんですか」
「俺の仕事が遅いからとか言ったら切腹させんぞ」
先手を打つと珍しく黙った。早く終わらせろよ土方コノヤローと小さく声が聞こえる。もう一度口付けて、今夜までに片付けるから部屋で待ってろと囁いた。総悟の首が縦に揺れる。温もりを手放して書類に向き直った。総悟が立ち上がり障子を開ける気配がする。
「足りないなんて言えないくらい永眠させてやりまさァ」
奴なりの優しさが込められた言葉が宙に舞い、障子が閉められた。知らず奥歯で笑みを噛み殺す。煙草を手に取って、火を点けた。総悟も俺に、甘えている。