「おかえりなさい、新ちゃん」
姉上がしゃくり、と西瓜を齧る。風が吹き抜けて風鈴を鳴らした。辺りはもう夜に溶け始めている。
「あ、それ、僕が切ろうと思っていたのに」
「ふふ、万事屋じゃないんだから、新ちゃんがやらなくてもいいのよ?」
「あ、いや……た、確かにそうですね」
形のけっして綺麗とは言えないカットされた西瓜を眺めて冷や汗を流した。万事屋に限らず実家でも料理方面は自分がやらないと大惨事なのだという真実は保身のために言わないでおこう。とりあえず一個まるごとあった西瓜を四分の一にしてそこからまた切り分けることはできたようだ。もちろん怪力あっての力技だが。
姉上がこの刻限になってもまだ家にいるということは、今日はすまいるを休みにしてもらったということだ。縁側で団扇片手に涼んでいる。いったい何を考えていたのだろう。
「新ちゃんも立ってないで座ったら。西瓜冷えてて美味しいわよ」
「じゃ、いただきます」
僕も縁側に腰掛けて西瓜を一口齧った。瑞々しい甘味が口いっぱいに広がる。美味しい。夕飯は食べた? と聞かれて はい、万事屋で、と答える。暫く沈黙になった。それは僕の知る中では居心地のいい沈黙に入るはずだったけれど、事情があって少し飲み込み辛いものになった。
「ねぇ、新ちゃん」
「なんですか、姉上」
姉上は一瞬だけ何も言わなかった。僕にはその空白が幾つもの言葉を零したように思えた。
「……なんでもないわ」
姉上はずっと虚空を見つめやっている。
このやりとりを今年もこうやってなぞった。それは確かになんでもないようなことで、とても重要なことであった。
姉上が綺麗な唇から零す思い出の数々をいっこいっこ拾う。姉上の体内で濾過された記憶が、僕の中で変形して揺蕩ってゆく。他人から受け継いだ記憶が増える度に、僕は自分が得た数少ない体感を思い出せていけるような気がした。実際覚えているはずが、ないのだけど。
頬に触れたはずで、手を握ったはずで、抱いてもらったはずの、その人。
この日に姉上が辛い目をする理由を、僕は知っている。
この日に僕が辛い目をする理由を、きっと姉上は分かっている。
あったものを失った哀しみとあったものを覚えていない哀しみを互いに想像することしかできない僕らは、毎年この日の夜に、そっと空を見上げる。
「姉上」
「なぁに新ちゃん」
「……きっと、僕らのこと見守ってくれてますよね」
「……そうね、そのはずよ」
「……父上と、喧嘩とかしてませんよね」
「ふふ、たまにはしてるかもしれないわね」
「どっちが強かったんですか?」
「それは父上の名誉の為に教えないわ」
しゃくり、と最後の西瓜を齧る音が、姉上の鈴をころがすような声と同時に響いた。あの厳しい父が負ける女性とは、いったいどんな人だったのか。昔から日常的に受ける姉からの暴力を思い浮かべて、それ以上の力を持つ人物像を想像し、少し暗くなった顔を誤魔化すためにもういちど西瓜に齧り付く。父上も女の涙には弱かったとかそういう事情の可能性だってあるけど、僕としてはそっちの理由の方がまだマシだ。
姉上がそう言うのなら、きっとそんな母だったのだろう。命日に縁側で西瓜を食べる姉弟を天から優しく見守るような、父上がずっと惚れ続けていられたような、そんな美しい女性。