何故今か、と思うことは人生のうちに数多い。愛刀の手入れを済ませ、帳の落ちた庭で一閃、鈍色を振った瞬間に師の言葉を思い出した。
――いいですか、重心は――、そう、――ほらまた右肩が上がっていますよ。
あれは確か稽古場の中。先生の太刀筋に憧れ、愚直に竹刀を振り続けていた俺に声をかけてきたのはまさしく憧れの人だった。
両手で握った竹刀を懸命に振り下ろす。生真面目に何度も何度も繰り返す俺によく付き合ってくれたものだと今では思う。そう先生は優しい方だった。
この人はこの世界で最も尊い存在、その位置にいる人なのだろうと思っていた。なくしてはならない人。
空気を切り裂いた刀、そこから伝わる振動、握って、筋肉が引き締まり、または弛む。ひとつひとつが先生に教えてもらった動きだと感じることがある。そうだ、普段は忘れてしまっているのだ。
構えをとる。不思議だ。あれだけ言葉を交わしたはずの相手なのに、はっきりと覚えている記憶など数えられるほどしかない。それは、刀の振り方に始まり、魂のありかた、季節の行事での決まりごと、そういう身体と生活に染み込んだ教えと。あとは。
――よくできましたね、小太郎。
自分の褒められたときの記憶。きっと当時に、嬉しくて反芻を繰り返したおかげで、今もまだ確かにあった思い出と認識できている。言葉と、撫でられたことと、その手が温かくて本当に優しいと感じたこと、それは覚えているのに。
「どうして、」
(声、匂い、感触は朧気なのだろうな)
ふっと身体から力を抜き、刀を鞘に納めた。踵を返し縁側から中に入る。座っているエリザベスに、蕎麦を食いに行こうと声をかけた。立ち上がり戸口へ向かう白い後姿を追う。
ふいに髪を耳にかけ熱い蕎麦を啜る自分の横で、微笑んで自身も蕎麦を食べる先生の姿が脳裏に浮かんだ。それはとても朧気だが確かに熱をもった、優しい記憶の破片だった。