乱雑ワールド

「蛙の刻に会いましょう。」

タイルと煉瓦の入り混じった歩行者用道路の往来数はこの時間にピークに達する。空の泣く今日は朝から蛇の目と蝙蝠がぶつかったり譲り合ったり。走り出した子供のポケットから転げ落ちる飴玉ひとつ、ふたつ、みっつ。
猫がそろりと立ち上がって空気を泳ぐ小魚を掴まえる。シャボン玉が鼻に停まったシルクハットの男性。磁石の指輪で離れないカップル。パリパリのスーツを着たサラリーマンの馬が大きく手を振るセーラー服の少女を見つけ顔を綻ばせる。ぱちん、と小気味好い音を鳴らして少女が蝙蝠を広げた。二人が同じ傘の下隣り合って帰って行く。雑多の中に響く音。

 からん からん からん、ころん、からん。

鮮やかな猩々緋色の番傘を肩に掛け、娘が下駄の音を震わせて歩く。首を左へ、右へ。時刻はもうじき熊の刻。
「あんさん、おらんなぁ」
アプリコット色の空気が徐々に翡翠色へ染まっていく。娘は通信機器を常備してはいなかった。無数の電磁波が飛び交う中、五線譜に停まる鳥たちが歌う。人ゴミの中心に立ってしまった娘は立ち止まることも出来ずに彼の人を探している。
急にそれは現れた。犬頭の向こう、ポニーテールの隣。見慣れたアンテナ。
「あ」
娘の声が自然と明るく変わる。咄嗟に目の前の波を切り開こうとしたが失敗し、さっき見かけた少女のように大きく手を振って合図を送ることにした。
「こっち、ここやで」
出来る限りの声を振り絞って場所を知らせる。突出したアンテナが一瞬少し上がったと思ったら、急速にスピードを上げて娘のいる方角へ動き出した。少しずつ近付いてくる鋼の色に娘の鼓動が速まっていく。程なくして青年は無言で娘の元へ辿り着いた。ストームグレイのシャツの肩口が、鼠色の傘からはみ出して濡れている。
「ほないこか」
遅れた理由を聞かずに娘は微笑んで呼びかけた。青年が黙って頷く。
 
 ガガッ、ピー。

頭頂部のアンテナが無数の音を拾って喚くのを青年はこの時ばかりは気にしてしまった。表情には出さないがそっと右手で触れるその一瞬を娘が見逃す筈もない。
「あきまへん、せっかくええ音やのに」
信じ難いと瞬くグレイの瞳に娘の不満そうな顔が映り込む。耳に拾った言葉を反芻させると白い皮膚の下でターコイズの血液が上っていく感覚がした。アンテナから発せられる雑音が僅かに歪んだ理由に娘は気が付かない。
目的地はレッドサンドストリートの入り口近辺にある。まずはレインアート通りを抜け、千歳商店街を開演までの暇潰しがてら巡ることにしていた。
千歳商店街にて、娘が花簪を欲しがれば青年が買ってプレゼントした。お礼にと娘が購入したのはアイリスを模したブローチで、ぎこちなくそれを装着するほんのりターコイズの顔を娘の頭上で揺れる桔梗が笑った。
買い物を楽しむ内にふたりの持つチケットに書かれた会場時間が近付く。商店街の出口から見える久遠通りを慌しく横切ってファニー劇場に滑り込み、自由席の中でもステージの見渡しやすい良席を確保した。着席した途端、ある種のゲームをクリアしたような達成感を覚え同時に笑う。暫く経って劇場内の色が落ち、眩いスポットライトを浴びた道化師が現れた。サーカスショーの始まり。日常ではお目に掛かれない愉快痛快な事象や光景に破顔一笑する場内。盛り上がって浮き出した客に宙吊りになっても笑顔を崩さないピエロが唇に指を押し当てて注目するように促す。両手を大きく広げたピエロを光らせる照明がワインレッドに変わる瞬間にロープが切れ、人影が落下した。数名の女性の悲鳴が上がり、それは娘も例外ではない。静まり返る場内。客席の中心にスッと射したゴールドの輝きの中、見事ピエロは生還した。沸き立つ観客席。アンテナの青年が隣を窺うと、心底安心したように笑って惜しみない拍手を送る着物の娘が見えた。その時青年が感じた衝撃は、さざ波のように優しく心内を侵し、揺れる歓声を受け止めるアンテナはまたもや歪んだ声で唸った。
 
「ほんにおもろかったどすなぁ」
劇場を出てもまだくすくすと思い出し笑いを零す娘の隣で、ポーカーフェイスの青年は鼠色の蝙蝠を天に向けて差す。脳内では臆病なパフォーマーが綱を渡るか否かで真剣に迷い、温度を上げた脆い感情は蝙蝠やあのピエロのようにちゅうぶらり。知る由もない娘が和傘を回しながら彼の顔をほんのちょっと窺ったことを気付く由もない。沈黙。
先に言葉を出したのは、アンテナの生えたオトコノコ。

「朝焼けの東空。夕暮れの西空。猫の髭。犬の笑い皺。海豚の涙。熊の蹄。虎の毛並。馬の瞳。雨露に濡れる野草。陽が照らす蒲公英。桜紅の貝殻。深海の珊瑚礁。上質な和紙。シルクの布。教会のステンドガラス。煉瓦造りの壁。陶磁器の道。ビー玉。折鶴。おはじき。和菓子。スプーン。水晶。松。竹。梅。桜。菊。ハイビスカス。百合。薔薇。アネモネ。シロツメクサ。胡蝶蘭。コスモス。チューリップ。ラベンダー。向日葵。青い空。白い雲。緑の草原。黄色い星屑。紫の海。桃色の丘。赤い林檎。黒い夜空。足りない。真夏の雪。秋の桜。真冬の向日葵。春の紅葉。四葉のクローバー。それ以上。一つの体。十の指。百の器官。千の時。万の思い出。億の感情。那由多の言葉。無限の想い。まだ足りない」

「つまり、どういう意味どすえ」
「君が好きってことさ」

薄紅色の風がふたりの頬を撫ぜついでとばかりに娘の方を染める。唇をきゅ、と引き結んで数秒灰色を見つめた後、少し俯いてから顔を上げゆっくりと微笑んだ。
「今日はほんに寒いであかん。手が冷えてかなわんさかい」
桔梗とアイリスの距離がほんのすこしだけ近付く。青年がターコイズの頬を淡く弛ませる。
つまり。
「そういうことやろ?」

 からん、からん ガガッ、ピー。

 からん、からん、ガガッ、ピー。

        からん。