余所でやれ。

5歳

優しく何かをしたわけでもないのに、彼女は唇をそっと触れさせてきた。おやすみの前にぬいぐるみにするようなそれは本当に軽くて柔らかかった。優しいから何かを優しく差し引いたような感触が、僕の心を薄桃色の液で満たしていった。蝉の声は防音ガラスと冷房機の音で聞こえなくて、暑さはその冷房機のせいで感じなくて、好きな番組は野球の再放送で潰れているような、そんな日だった。柔らかい感触がした。食べたアイスがソーダ味だったことは覚えているのに、彼女が発した言葉を本当に覚えていなくて、もったいなくて、自分に悔しくって蹴り飛ばしたくなる。僕は固まっていた。理解するのに時間がかかった。何も動けずに、そっと壁時計を見て母さん達はまだ買い物中なんだろうと思考の隅で案じることしかできなかった。十年以上も前のことだから、どれが正確な記憶なのか分かる術がない。夢だったんじゃないかとすら思える。彼女は笑っていただろうか、それとも泣きそうだっただろうか。どれでもなかった気がする。作り出されたかもしれない記憶の一場面を信じるとしたら、静かに瞳を閉じている姿があの時の彼女だ。まるで、祈るように。
長い一瞬だった。
初めて知るような行為だった。

17歳

彼女に手渡された彼女自身の成績表はまずまずといった具合だが、一点だけ驚く程酷い数字に埋められていた。そりゃ母親に克服を勧められもする。だからといってこの暑い中わざわざ自転車で坂を駆け上がってまでしてウチに逃げて来なくてもいいだろう。そう言うと彼女は否定する。苦手教科克服レッスンの受講及び丁度アイスの切れた自宅では賄えない空腹の埋め合わせに来たのだという。ようするにおねがいとたかりが目的だ。母さんの好きな煎餅パックを謝礼品として持参してくる辺りたちが悪い。どうしてそれで空腹を満たさない。
かくして僕の時間とアイスは奪われた。母さんも何故僕の好きな味ではなく彼女の好きな味の物を買ってきているのだろう。ここは誰のための家だ。
今、目の前で水玉模様のタンクトップを着た彼女が冷蔵庫からコーラを取り出してそれを飲み下した。それにかかった時間が、あれが起きていた時間とぴったりと合わさって、僕の眼前の世界を回す。
節電の夏、扇風機を奪い取られて団扇で風を起こす。蝉が五月蝿い。

17歳 夏

彼女が僕を呼んだので近付いていくと口に飴を放り込まれた。感想を求められておいしいと伝えると「えー」と納得のいかない顔をされた。そうして、彼女は口内で飴を転がす僕の目の前で、僕が二人で食べようと思って持ってきたポテチを開封した。なんだか自然な体を装って酷い嫌がらせを受けている気がする。数分、丸い固体を噛み砕くことに尽力した結果、僕は彼女の食べた余りである細かいチップスを分け与えられた。いつも袋の隅に残るあの。非常に美味しかったのでお礼として何も言わずにギトギトの指で寝癖一つない綺麗な髪を撫でてやった。触れられた指に彼女がほんの少し喜びを顔に表す。罪悪感が僕をなじってきた。終いには鏡を覗いて髪を整え直す彼女の姿を思い出して、嫌がらせを受けた瞬間よりも酷い気分に僕はなった。僕は静かに、部屋を出て二人分のジュースを注いだ。

友人曰く

事あるごとに傍に居たがり、お互いを好き合っていて、たまにキスをする関係を、世間一般には恋人同士というらしい。
最初の二つは友人または血族関係でもあっていいが、大事なのは最後の一つなのだそうだ。なのだそうだ、というかそれくらいなら言いたいことは分かる。言いたいことは。
キスを何回したことがあるのかと聞かれ、正確には分からないと答えるとど突かれた。
付き合ってるということも、恋人であるということも、認識している。
ただ、あれだけは意地でも認められない。

17歳

彼女の家へ行くと出会い頭におばさんに留守を任せられた。彼女も含めてだ。二人でテレビを見ていると、“世界の珍スポーツSP”という見出しが軽快なBGMと共に流れてきた。ほーやら、えーやら言いながらそこそこ楽しんで見ていると、「奥様運び」と呼ばれるフィンランドのスポーツが紹介された。画面にはその名の通り奥様を肩車やおんぶ、見た事もない謎の体勢で担ぎ上げゴールまで走る旦那様たちの姿が映し出されていく。スタジオの女子アナが言うには、運ぶ女性は法的に夫の配偶者である必要は無いそうだ。ただし、年齢が17歳以上でなければいけないらしい。番組がCMに切り替わって二つ目が終わった頃、彼女がやりたいと呟いたので僕は隣を見た。相手は僕を見つめてやってみようよと今度は提案してきた。フィンランドまで行くの、と冗談で聞けば今すぐにがいいと言う。思い立ったら即実行。彼女がたまにしたくなる事象だ。ソファの周りを一回でもいいから回って私を運んでみてよ、と些か見くびるようなニュアンスで言われる。
「女の子一人担ぎ上げなさいよ。男でしょ」
「はいはい」
仕方なく彼女の背を右腕で支えて左腕を膝裏に差し込んだ。弾みをつけて彼女を持ち上げる。そのままの体勢でぐるぐるとソファを四周する。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする彼女を眺めることがとても面白くて愉快だった。
気が済むまで、の時間の主導権を握るのはいつの間にか僕の方になっていた。ソファに降ろした彼女が僕の二の腕を掴んで不思議がる。「あれ、昔は……」に続く言葉はフェードアウトする。横から髪を撫でられた彼女は悔しそうな顔をしていた。恐らく今から数分僕が彼女にする行いは全て彼女にとっての不服たる行為に変わるだろう。思う存分頭を撫で、ジュースを持ってきてやり、お菓子を全て譲ってやった。徐々に癇癪を起こす彼女からのクッション攻撃を受け止めつつ、悠々とコーラを飲んでやる。今日は一段と炭酸が美味い。

今まで

意識に惑う隙もなく僕達の関係は周囲に赤い線で囲まれた。画用紙にぼんやりと広がった水量の多い水彩絵の具の上からマーカーで描いた楕円はとてもじゃないが上手く元の形を収めたとは言い難かった。それでも、世界がそう説くのならなるべく黙っておこうと心に仕舞っておくことにした。僕は恋をしている。それは正しい。
彼女から唇を合わせてくるタイミングには時たま不可解なものが混じる。例えばほうれん草のおひたしを口に含ませている時だとか、ゲテモノ特集を見た後だとか、するめいかの脚について言及した時だとか。僕が屁をした直後のことだってあった。唇と唇を触れ合わせて、そっと離れていくだけの行為を、彼女は必ず瞳を閉じて実行する。そして二人きりの時でしか行わない。不可解なタイミング、とは少し限定しづらい。5歳のあの日から今日に至るまでに何度も、何度も、脈絡ない頃合に彼女は唇を触れ合わせてきた。挨拶とも違う、親愛とも違う。まるで、願うように。
どうにもこの恋愛は、この行為と切っても切れない関係のようで。
この世界でたったこの二人だけができるこの行いを「口付け」と名付けた。それ以外の行為は「キス」と言った。全て、僕が勝手に決めて僕だけが知っている。

17歳 秋 帰宅途中

友人の浩次がしきりに振ってくる「最近ブレイク中のあの芸人のネタがつまらない」や「昨日おばあちゃんが変なくしゃみをしていた」などのくだらない話題をくだらないと感じつつ受け流していると離れた通路に彼女を見つけた。一人で帰宅している背中に声をかけようかと一瞬思案し結局そうすることにして口を開いた、途端に。
「やーい、膝カックンッ」
膝裏の不意打ちと同時に目の前の道路を大型トラックが横切っていった。次に見えた通路には既に彼女の姿は見当たらなかった。そのまま角を曲がっていったらしい。驚いた? と悪気の一切ない純粋な問いかけが後ろから聞こえる。
翌日、スクールバッグを開けた瞬間飛び出したおもちゃの蜘蛛に虫嫌いの浩次くんは大きな悲鳴を上げていた。可哀相に。

17歳

ベッド上に盛り上がる布団を久しぶりに見た。塞ぎ込んでしまうと身体まで布団に閉じ篭るのが彼女の習性だった。僕が傍に寄って床に座る。喧嘩した、という細い糸でできたような声が厚い布に通されて届いた。彼女は友人に告白する勇気を持って欲しくて、友人は失敗することが怖いから慎重になりたくて。言い合いの最中に電車がここの最寄り駅のホームに到着したことを告げた。仕方なく電車を降りて振り返りもせずに階段を下ったところで、猛烈な後悔に襲われた、と彼女は話す。
ごめんねが言えなかったんだよな、と僕が彼女に確かめる。言い合いの最中でとっくに、言おうとしていたんだよな。布団の一部分がゆっくりと上下に揺れる。
だったら今言おう。今すぐにでも言おう。色々考えるのは、その後でいい。
彼女が布団から手を伸ばして自らのケータイを手に取る。布団が彼女の腕ごとそのケータイを飲み込む。十分、十何分、経った頃。彼女が何も持っていない方の手をこちらの世界に差し出してきた。
「……手を、握ってて、ください」
彼女の手は汗ばんでいた。祈りをこめて、今、一通のメールが羽ばたいていった。
彼女が水中から上がって来たような息遣いをしながら布団から顔を出す。暑かったのだろうか、頬も目元も少し赤い。大きく息を吸い込んで、それからゆっくりと吐く。
彼女と彼女の友達が、今夜穏やかに眠れますように。

時々

彼女が雑誌を閉じて時計を見遣った。そろそろ空腹が気になりだしたのだろう。案の定立ち上がって真っ直ぐにキッチンへ向かった。恐らく冷蔵庫を開けてから右の棚にある引き出しの上から三番目を引いてインスタント麺の品定めをするはずだ。彼女がカップ麺を二つ取り出してポット脇に置く。予想通り「どちらにしようかな」と指を振りだし、最後に指が止まったカップ麺ではない方を残して食べない分を引き出しに戻した。カップにお湯を注ぎ三分間待つ間に彼女はきっと烏龍茶を口に含む。冷蔵庫を開けて烏龍茶を取り出した状態で彼女が視線に気付き振り返った。
「どーかした?」
「いや、なんでも」
僕は時折こうやって僕以上に彼女を知らない世界中の人間に優越感を抱いて自己満足する。

友人の浩次曰く

『決めた今から告白してくる>o<!!! 結果は明日のお楽しみだぜ!』
受信したメール本文を読み思わず感嘆の声を上げる。いよいよか。ありきたりだけどエールを込めた「がんばれ」という言葉に「もしOKだったら今度こそ名前教えて」という要求を加えて返信する。
およそ一時間後、彼女からメールが来た。件の彼女の友人が好きな人に告白されて付き合うことになった、という嬉しいニュースだった。
これで、僕が今まで立てていた予想がぴったりと当てはまった。僕は新規メールを二つ作成して、「よかったな」という同じ文面を二人の大切な知人に送信した。

数日後

彼女から『りながかわいい』とだけ書かれたメールが送られてきた。メールには彼女の物と思しき手がストラップの昆虫を持って、背を向けて逃げる黒髪ロングの女子高生を追っている現場の写真が添付されている。
なんだ、お似合いの二人じゃないか。

13年前の7月1日

ある少女が公園で誘拐されかけた。まだ梅雨時を引き摺った湿気の多い、蒸すような暑さの日だった。その暑さが、犯人の気を更に狂わせたのか。車に乗って道を聞くふりをし、隙を見て車内に連れ込もうとする常套手段を用いた犯行であった。決定的な犯行に及ぶ直前に偶然通りかかった大人によってそれは阻止され、事件は未遂の内に幕を下ろした。急いで車で逃亡した犯人の行く末を当時の僕は知らなかったが、数年後に母さんからあの事件の直後に逮捕されていたことを聞いた。逮捕された男は、その頃地元で多発した全ての猥褻事件の加害者らしいということもついでに聞いた。ようするに相当の変態だ。あの少女誘拐未遂事件の際、少女の傍にいた少年は危険な男にやめろとただ一度声を荒げることしか出来なかった。幼い彼は無力と認識されていた。また少年自身が、目の前で少女に迫る危機に怯えていた。事件にあった少女は、その時傍にいた少年の顔を忘れてしまったと後に言った。あんな臆病者忘れて清々する、とも言った。忘れられた少年は、それで充分に良いのだと感じている。その少年はよく僕の中で泣き出して、縋るようにあの時こうすれば、と嘆く。僕は毎回泣きたいのをこらえて、その少年を抱き締めて宥めることしかできない。

18歳 梅雨

布団の虫がいる。空が鉛色に覆われているせいで薄暗い。7月の近付くこの時期になると、必ずといっていいほどこうして彼女が閉じ篭る日がある。こうなるとおばさんは僕に救助を要請する。
彼女は強い鋼の心を持っていた。鋼故に、メッコメコに凹んだとて割れずに機能を働かせていた。だからこそ、きっと彼女の体が彼女の心の為にこうして救難信号を発するのだろう。彼女が壊れてしまわぬように。ある歳に「最後までヤラレちゃった子たちに比べたら、全然マシ」と呟いた彼女を僕は叱った。苦しみは比べるものではないし、そもそも彼女の苦しみや辛さを彼女が無理して否定することは、僕が許さない。
彼女の肩を叩くと、布団の端から左手を差し出された。それを握る。彼女のベッドに寄りかかりながら僕は、とりとめのない話をずっと彼女に話す。
ふと、浩次がつまらないと言っていたネタを思い出してやってみた。布団の山が揺れて、小さな笑い声が漏れ出る。彼女が言うに、あの芸人のネタにウケたのではなくて、そのネタを僕がやったことに笑えたらしい。なんだそりゃ、と僕は呆れる。でも彼女が笑えたのなら、まぁ、いいや。

キス

未遂事件のちょうど一年後、母さんとおばさんが少し外出した際に彼女からしてきた口付けの理由を、明確に聞かない限りにこの先へ進めそうな気はしなかった。

18歳

彼女と喧嘩した。どうしてだ。冷静さを欠いてたとはいえ、僕の意見は正しい。僕は臆病者だ。もしあの時たまたま大人が通行していなければ、どうなっていたかを想像するだけで僕は泣き叫びそうになる。僕は彼女を護れなかった。彼女を救ったのは目撃者や警察であって僕ではない。僕は臆病者なんだ。違うのか。なのにどうして、君はそんなにも苦しそうに怒るの。

布団の虫が言うには

まずはごめん、と。それから誤解している、と。彼女が忘れてしまったのは、僕ではない別の少年だった。つまり僕が存在すら忘れていた人物のことであった。僕は本当に全く覚えていない。人間の記憶なんてそんなもんだよ、と虫は言う。
それから、彼女が脈絡なく口付ける理由は、僕が想像していたものと大体同じなのだと、布団虫は教える。彼女のトラウマは1年経てば大分薄れていったが、不安はまだしつこく消滅しないでいた。あの時実は体をほんの少し触られていたのだと、布団虫が暴露する。性的な欲求抜きでただ触れ合うことは可能か試したかったのは、紛れも無く事実だった、と。その後も何度も、何度も試してみては、僕自身の反応に彼女は安心していた。ただそのせいできっと無理をさせてはいるのだと、自覚はしているのだと、だから、本当にごめんなさい、と。そこまで言ってくぐもり声は詰まった。僕は彼女の肩を叩いた。おずおずと差し出された手を、そっと触れて、握る。祈りがあった。体温が触れあうことの意味を、ふたりじっと考えていた。

18歳 夏

また今年も彼女に勉強を教えている。アイスは既に諦めていたら逆に彼女が僕好みの物を持ってきた。驚いた僕に彼女が笑う。僕はもう口付けやキスを区別することはなくなった。それで充分だと思った。冷蔵庫から勝手に取り出した炭酸水を彼女が飲み下す。団扇を扇ぐことに専念していた僕を彼女が呼んだ。不意打ちで彼女がもう一度僕を驚かす。ソーダの味がして、彼女の言葉に僕が笑った。蝉の声が聞こえる。







この話は昔ここで終わりだったのだけど、色々考えて、今、少し手を加えた。ほんの最後のどうしても違和感の大きい箇所を書き直しただけなので、大本の話のほとんどは変わっていない。それがあったことをここに書き記しておく。この話は当時の自分が当時の自分なりに考えて書いた話なので、こうして置いておくことにする。