「ねぇオマエの得意教科って何」
「音楽」
「へぇ意外、天文学かなんかかと思った」
「どうせ雰囲気からそう思ったんだろ。その前に天文学なんて教科ねーよ」
「確かに」
穏やかだと思った。最近これほどまで他人と接している時に心地良い気分になったことはないだろう。
傾げていた首を元に戻す。星空が見えた。
「雰囲気でいうなら」
僕が言った。
「うん」「どっちかっていうと、数学に見えるかな」「あー……」
そうかなァと小さく呟きがきこえる。そうだろうと意味もなく答える。僅か離れた隣から小さな噴出し音がする。
「星が綺麗だ」
どちらからともなくこう言った。本当に綺麗だから、本当にそうとしか言えなくて。ボキャブラリーが乏しいからと考えもするけれど、綺麗と思うのだから、仕方のない。
「寒くねーの」
また僕が言った。
「暑いくらいだ」
向こうが答えた。返す言葉を探してもいなく、沈黙が流れた。不思議と息苦しくないことに驚いた。いつだって酸素は目の前にあることに気付いた。
見上げると、幾つもの星があった。広げた両手足から、冷えを感じる。家の屋根瓦の温度だ。意識して力を抜いて、首から上も灰色の陶器に身を任せた。眼を瞑ると、開いた時に宇宙が見える心地がするが、いざ開くと、ほんの少しだけ上部に電線が視認できた。興醒めとは思わない。これもひとつの宇宙の見方だと思えばいい。格別その方面に興味があるわけではないけれど、今はただこれだけを見ていたかった。ひとりで見ていた筈だった。暗闇だったとしてもさすがに人影くらいは見えるから、先客がいたわけではないとすぐに理解した。ひとりでいるような心地は今もして、でも確実にさっき感じた独りの心地は二度としない。手を伸ばして届かなくとも、横を向けば視界に入るだけで充分だ。相手は今何を思っているだろうかと、そこまできて考える。初めて会って、名も知らない。でも不思議と親近感が湧く。よくあるじゃないか、こんなこと。と、調子よく流れ歌った。
ぬるま湯に浸かる心地がする。あぁ、気分がいい。気分がよくて、泣きそうだ。
「よく、わからなくて」
この状況も大分よく分からないが、ずっと前から降り積もって、溜まって、そっとしまっていた疑問を吐いた。
「なにが」話さなかったのは数分なのに、久方ぶりに聞く声だ。
間を開けて答える。「全部」
「知恵のない返答だな」と、言われるかと思った。相手は何も返さなかった。いや、返した。
「ねみィ」
思わず僕は吹き出した。おかげで一つ錆と、枷が取れた。
眼を瞑った。眼を開けた。星があった。
「どうしてこうも僕は独りなんだろう」
向こうからの視線を感じた。僕は続ける。
「と、思ってしまうんだろう。みんな確かに、ここにあるのに。もしかしたら、みんなもそう思うことがあるのかな。僕はみんな、好きなんだ。面倒だとも、辛いとも、嫌いとも嫌とも会いたくないやりたくない見たくもないとも思うのだけれど、好きなんだ。好きでいたいんだ。でも、時々つらいんだ。会いたくて、話して吐き出したくて、汚いもの全部見せて、そんなことないよ、って言ってもらいたくなって。でも、どうして、こうも、あぁ。僕なんて」
『 』と吐こうとした瞬間に、急に口が動かなくなった。外部から力が掛かっている感触がする。それは一瞬のことで、すぐにまた元に動かせるように戻った。
ぱくぱくと魚のように開閉させて、意思が通じることにそっと胸を撫で下ろす。それから横を向いた。
「何かした」とは寸でのところで聞けなかった。ごめん、とだけ謝る。
もう少しだけ、もう少しで済むか分からないけれど、話させて欲しいと頼むと、いいけど、と素っ気無く返答がきた。
どこに投げ入れれば分からなくなった廃棄物をぶつけているような気がして、後ろめたくもなったけど、僕は話したいだけ話して、一応はすっきりした。
最後に「最近涙が出ないんだ」と呟くと、相手は困ったように微笑んだ。
「ところでオマエって何者なの」
「鈍いだろ、オマエ」
「いや、気づいてるって」
じゃあいいじゃんと言われると、どこか釈然としなくなる。問い詰めたように見つめると、相手はわざとらしく溜息を吐いてこう言った。
「『宇宙人』……じゃダメか」
僕は視線を逸らさない。でも段々首も辛くなってきて、二秒後には外した。横で息を吐く声がきこえる。
「俺は、宇宙人かもしれないしそうじゃないかもしれないし、そこんところはどうだっていい。どうだってできる。俺だって今さっき生まれたばかりで、自分がなんなのか何者なのか知らないしわからない。本当に。だから状況から察するに、俺は異星人か、UMAか幽霊か。あるいはそれ以外、何だっていいんだ。オマエが一回だけ拝めた流れ星でも、昨日食べ残したかもしれない米粒の怨念でも、オマエが眼にゴミが入って生理的に流した涙の一滴でも、好きに考えてくれ」
殆ど答えを出したような状態で僕に振ってきた相手は掛け声を自分でついて寝転んだ姿勢から起き上がった。僕はそれを見ていた。温い風が通る。
「ま、人間じゃーないことは確かだわな」
真珠のように柔らかく光る白い髪と夜の空気のように冷たくて温かい紅い瞳を宿すソイツの姿と輪郭は、綺麗という言葉に愛されていた。
「じゃあ」僕が口を挟む。
「さっきの教科のくだりは」「ジョークだよ」「笑えない冗談だ」
だからこそ、笑えた。
「オマエ、性別ってあんの」「オス寄り」
「何年生きているの?」「教えねー」「なんでよ」
他愛もなく質問をしあった。質問者は主に僕だけだった。たまに向こうから答えを求められた。僕は普段口にしないようなことまで加えて返した。
星はずっと瞬いていた。星はずっと僕らを見ていた。向こうが星であることさえ、僕は想像の範疇に入れていた。些か、眠くなってきたかもしれない。
「どうしたら、涙を流せるかな」僕は聞いた。最後の質問にするつもりだった。相手は答えた。
「眼を瞑れ」
「え?」
「いいから」
ソイツが近付いてきたと思ったら、視界が暗くなった。他人の体温が空気を介して伝わる。手を翳されていた。
「十秒以内に」
ソイツの顔も、星空も、電線だって、見えなかった。見えないけれど、今ここにある。見えなくたって、会えなくたって、僕のすべては、ここにあるんだ。
「瞑ったら、オマエは元に戻るの」
「さァな」
「これから、何をするの」
返事を待たずに、僕は眼を瞑った。そっと、目蓋に人肌の温度が乗る。ヒトの指そのものだと思った後に、意識に温かいものが沁みてきた。
ゆっくりと一回なぞる動きをして、そっと指が離れた。眼を開けた。もう誰一人としていなかった。独りでいる心地はせず、されど人影はあらず。星が宙に浮かんでいた。温い風が吹いた。電線が見えた。すべてがうそのようだった。
「笑えない、冗談だ」
もういちど笑えるようにと、すんなりと涙は零れ出た。