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駅前のコンビニに寄って雑誌とコーヒーを購入し、電車内の二十分間その雑誌を読んで暇を潰す。通勤ラッシュの人並みを掻い潜り二番出口を出てすぐ左、簡素な住宅街を進んでいくとよく手入れの行き届いた松の葉が塀から顔を出している見慣れた家の前を通る。佐藤英雄さとうひでおが呆れの混じった溜息を吐いたのは、その民家の角を曲がってすぐのことだった。
「よっ」
「……また、お前は」
年季の入った落ち着いた家々の景色に挟まれた公道の上で、爽やかな白が悠々と存在している。英雄にとっては、酷く暴力的な白に見えた。三野啓太みのけいたのファッションセンスは相変わらず白い服の系統を好む地点で膠着している。対になるような赤い服をたまたま今日も着てきてしまった英雄の目には、三野は宇宙人か天敵の害虫だと思う他なかった。はっきりと透明感のある声で三野が喋る。
「今日はパーカーにしてみたんだぁ。ほら、もう秋じゃん? 英雄って今日一限じゃなかったっけ。急がないとヤバくね?」
「もう見飽きた、お前の服の色には。俺は今日二限からだ」
「そうなの? ……じゃあなんでここに今いるのさ」
「教授に提出するレポートが残ってんだよ。締め切り時間が迫ってるんだ」
「じゃあ、結局急がなきゃ」
走る? と疑問系で聞かれたので走るか、と返すと、三野はあからさまにたるそうな声を出して小走りし始めた。英雄もその半歩後ろを腕時計の長針を気にしながら走る。
校舎まであと少し、という所でもったいぶって三野が口を開いた。
「だって、白なら赤がよく映えるだろ」
え、と反射的に声を発して三野の横顔を窺おうとする。「俺、一限からだから」
と、パーカーに付いた白い紐を大きく揺らしながら三野は先に校舎の中へ入っていった。英雄はその後姿を見つめる。今まで何回聞いたか分からない言葉を反芻して、三野の思考回路の薄気味悪さに吐き気を覚えた。
朝から気を滅入らせて英雄も校舎へと入っていく。嫌な物をついでで思い出してしまった。やけにリアリティのある光景は、あれを夢ではなかったと英雄に思わせるには充分すぎる記憶だった。

「佐藤」
「……新谷あらや教授」
振り返ると目の前に紺色のスーツを着た新谷教授が立っていた。大学内の廊下。ちょうど新谷が研究や休憩をする為の教室へ向かうところだった。
「探していたんですよ」
「ああ、そうなのか。すまんな、手間掛けさせて」
「いえ」
口元を上げて笑みをつくる。英雄は目線だけを新谷の靴元から頭部へ瞬時にスライドさせて、目立った変化はないか、露出した部分に外傷はないかを視認した。特に何も起こっていないかに見える。
「レポートの提出期限って、まだ間に合いますか」
と、英雄は整然と文字が並ぶ用紙を新谷に差し出して言った。新谷が人の良さそうな笑みを浮かべて答える。
「ああ、今ならまだ大丈夫だ」
「そうですか」
「それにしても珍しいな、佐藤がこんなギリギリに提出するなんて」
「そうですか?」
内心動揺を抑えながら、英雄は白を切ることにした。第一、これはアンタが悪いんだ。俺はちゃんと昨日あの教室へレポートを提出しに行った。なのに、お前が。
英雄は想像以上に驚愕していない自分に驚き、予想範囲よりも取り乱しそうな自分に動揺した。新谷が今目の前にのうのうと存在しているという事自体が、英雄にとっての驚異であり、一種の希望でもある。
「では、これで」
と、英雄は軽い会釈をして新谷とは反対の方向へ踵を返した。
「……佐藤、ちょっと待て」
と、新谷の少し尖った低めの声が聞こえた。靴底と床が摩擦する音を響かせて英雄は振り返る。新谷は一瞬脅威と好奇心の混じる瞳を英雄に向けた後、いつもと変わらない明るい色を瞳に宿し言った。
「いや、何でもない」
そうですか、と英雄は三度目の言葉を新谷に投げて背を向ける。廊下を数歩進んだ時に背後で戸がガラガラと音を立てるのを聞いた。
昨日のことだろうな。英雄は意図的に閉じた瞼の裏に、一つの場景を思い浮かべる。
鮮血の赤。時が経ち変色した赤黒い体液。
血塗れた教室の床。倒れているのは、新谷教授。

「もうっ、もうっ、ほんと! マジありえないんだけどっ!」
英雄が講義室に入ると同時に、下方から聞き慣れた声が響いてきた。
「またなのか、仁美ひとみ
「ちょっと聞いてよ優輝ゆうき! あの人ったらさ、」
「あーはいはい聞いてる聞いてる」
スナック菓子をやけ食いしている真っ最中の仁美と、隣で面倒臭そうな顔で話を聞こうとしている優輝の元へ、三野が声を掛けながら近付いていくのが見えた。
「なになに、またあの話?」
傍まで行って、英雄も話題に入る。
「ミナトって奴と例の彼女の話か?」
男子一同、揃って視線が紅一点の仁美に注がれる。生まれ持った美貌を更に磨き上げた仁美の顔に乗った綺麗な眉がひくりと動き、油分の付く唇が苦々しげに開かれた。
「今度こそ絶対、湊さんこそは私が落とそうって決めていたのに、あの人最初からあの子のことしか見ていなかったのよ。出会った時だって、その後何度も優しくしてくれたのに、ある日突然あの子に釘付けになって、あんな目立たない子に。私が何をしたって結局最後にはあの子にいい場面が来て、あの人とあの子の距離が縮むだけで、私が何度アピールしたって知らない間にどんどん二人の仲が深まって、今日なんか取り巻きの女の子みんなの前で『彼女は僕の運命の人なんです!』って抱き締めながら宣言したのよ。ばっかみたい!」
一息で吐き出した仁美は、乱暴にペットボトルを掴み上げ中身のお茶を半分程飲み干して息を吐いた。これは、また見事な。英雄はいっそのこと感心する域だった。
「うん、どんまいどんまい、早く諦めて次を探せ」
と、頷きながらてきとうな慰めを言う優輝の首元を、締め上げんとばかりに仁美が引き上げる。
「あんたってねぇ……ほんっとうに女心が分かってない!」
「ちょ、たんま! 仁美たんま、待って、分かるわけねーからンなの」
「次を探せって何?! もう何回探したと思ってるのよ。またよ、また。こんな大失恋がもうこれで七回目よ!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
半ば取り乱している仁美に落ち着け、と英雄が宥めるように声を掛け、解放された優輝に大丈夫か、と三野が聞いた。英雄の胸には、仁美への激しい同情の念しか湧き上がってこない。それは今の仁美が面した状況よりももっと酷い、「これから先も彼女は失恋し続けるだろう」という確たる予感を案じての憂いであった。三野もきっと同じ気持ちを抱えているだろうと英雄は思う。
落ち着いた仁美が、ぽつりとこう呟いた。
「でも、悔しいけど、あの二人、凄くお似合いなんだよね」と、羨ましげに、でも何処か満足した面持ちで。
大抵仁美がこう呟くと彼女の気持ちが整った証拠であるので、話題は別の方向へ移っていく。
「あのさ、」
皆に聞きたいことがあったのだと英雄が思い出し口を開きかけたところで、目が合った優輝が、罰が悪そうに掌を顔の前に掲げた。
「ごめん英雄、先に俺が喋っちゃっていい?」
「え? ああ、いいけど」
「わりぃ」
謝りつつも、優輝の顔は嬉々として明るさを増し、早く話を聞いて欲しくてうずうずしているようだった。
「あのさ、俺」
と、もったいぶって優輝が言う。
「俺さ、県大会優勝したんだよ」
優輝の言葉の直後、しん、と空気が静まり、どよ、と即座に波打ち立つ。最初に言葉を返したのは仁美だった。
「え、ちょっと、なにそれあんた凄すぎじゃない!」
ただでさえ大きな瞳をまん丸に見開き驚く仁美を見て、優輝はとても誇らしげににっかりと笑んだ。三野も
「すげえ、優輝お前マジすげえな」
と、感動した声を上げる。英雄もそれに乗って
「すげえな優輝」
と、似たような言葉を発した。優輝はというと、今にもふんぞり返りそうな程得意げに胸を張っている。調子に乗りやがって、と英雄は思った。興奮気味に仁美が優輝に向かって言う。
「本当に凄いわね。だって、優輝まだボクシング始めて三ヶ月でしょ・・・・・・・・・・・・・・・・
「ああ、もう自分でも驚いてさあ。なんつーか、コーチが言ってたんだけど、俺って本当に飲み込みが早いし技のキレがいいらしいんだ」
「また分かり易すぎる自慢だね」
と三野が口を挟む。
「いや、でも威力とスタミナがまだ足りないみたいでさ、もっと精進しろって怒られたよ」
はは、と憎めない笑顔で優輝が弱音を零す。威力とスタミナが足りない初心者でも勝ち抜けられる程、ボクシングの県大会というものは容易なのだろうかと英雄は邪推する。優輝はつい最近まで、卓球部に所属した経験があるだけのボクシングにはなんの興味もない普通の学生だったのに。ある日何の拍子か偶然勧誘されてからというもの、目覚しいスピードで成長し、その世界にのめりこんでいった。
「じゃあそれを克服したら世界一も夢じゃないな」
三野が突拍子もなく言った。優輝が苦笑して何か言う前に、仁美が
「馬鹿、その前に全国でしょ」
と言った。
「そんなに上手くいくかよ」と優輝が笑う。
「お前ならいけそうな気がする」
英雄がそう言うと
「そうか?」
と更に笑窪を深くして優輝が返した。
「あ、そうだ、英雄の話って何?」
思い出したように優輝が英雄に聞く。英雄がこの雰囲気で切り出そうか否か渋っていると、早くしなさいよ、と仁美に急かされた。声のトーンを下げて英雄が聞く。
「話の方向がガラっと変わるけどさあ」
「うん」優輝が頷いた。
「新谷教授に恨みを持っていそうな人って誰か知ってるか」
は、と間の抜けた声を出したのは三野だった。
「英雄ってほんと唐突だよね」呆れたように三野が言う。
「英雄、推理小説でもハマってんの」仁美も茶化してくる。
「俺、推理小説とかだいっきらい」という三野の呟きを英雄は完全にスルーした。
「ハマってるというか……なんか、こう、胸騒ぎみたいな」
「でも新谷さんって良い人だから、そんな人いないと思うけどなあ」
新谷さん、と親しみを込めて呼ぶほど優輝は新谷、いや他の教授たちとも仲が良い。情報通の仁美も「知らない」と首を振った。
「なんかしんねーけど、そんな陰気な顔すんなって」
優輝の言葉にすかさず三野が「英雄はいつも陰気臭いよ」と言った。どういう意味だ。
二限目の始まりを知らせるチャイムが鳴る。仁美と優輝から少し離れた席に着こうとした英雄の隣に三野が腰掛ける。理解し難いといった視線を三野に投げ掛けて、英雄は眉を顰めた。

やはり、その日も三野は帰り道についてきた。
「俺と帰るのはやめろ」と何度言っても、三野はそれを聞かない。
三野は秋風に吹かれてパーカーの紐を弄んでいる。子供のような浮かれた足取りで歩む三野の半歩後ろを、英雄は植え込まれた街路樹の色付きを眺めながら歩いていく。三野がぶらぶらと前方を見ながら言った。
「新谷教授関連でなんかあったの」
「別に」
「嘘だ」
二車線方向の道路の両脇にある歩道には等間隔に木が植えられている。その根元には、誰かが手入れをしているのか、季節ごとに違う鮮やかな花が咲いていた。英雄たちの右側、車道側とは反対にブロック塀が続いている。塀が一件分だけ途切れた場所は空き地になっており、もう何ヶ月と新築の家が建つ気配がない。その空き地の隅に、英雄はおぞましい程艶やかな紅色の彼岸花を見つけた。ひゅ、と喉に風が通る。
「……昨日、新谷教授が死んでいる夢を見た」
「マジで」
三野は肩に掛けたバッグからペットボトルを取り出し、冷えた緑茶を飲む。なんでもないという風だ。
「俺が新谷教授の研究室までレポートを出しに行って、扉を開けたら……だった」
「でも夢なんでしょ」
三野の問いに「ああ、」と返す。
「別に、気にすることじゃない」
そう言って空のペットボトルをバッグの中に放り込み、三野は欠伸を一つした。本当にそうだったら良かったのかもな、と英雄は言葉を飲み込んで口を噤んだ。
街路樹の途切れた先を右に曲がって住宅地の中を進む。
此処を真っ直ぐ行くと分かれ道があり、左に曲がった先には右折する角がある。
分かれ道で英雄は立ち止まり、一瞬の間躊躇した。
左折してから三野が此方を振り返る。
「英雄」
灰色の空の下でやけに三野の声がはっきりと聞こえる。
「気をつけて帰りなよ」
いつもと変わらぬ笑みと言葉を掛けて、三野が向こう側へと歩き出す。三野の背中を数メートル離れるまで見つめてから、英雄は駅の方面へ歩き出した。
そして、その日に三野は右折した途端飛び出してきたトラックに轢かれ、死んだ。