coquerico

常識とは厄介なもので、皆口を揃えて俺が早起きなものだと言いやがる。それは確かに事実だ。しかし、なにも好き好んで早起きなわけじゃない。夜明け前のこんな時間に騒ぎ立てるなと何度言われたが知らないが、俺だって好きで五月蝿く叫んでなどいない。これは俺が生まれる前から俺に与えられていた、使命なのだ。
「……なんて考えていたら、もう朝か」
遥か彼方に見える地平線の輪郭は既に白みを帯びているが、視線を上げた先にはまだ薄紫の夜が見え、首を反らすほど濃く鮮明になっている。つまり夜が明けるにはまだ十分時間はあるのだ。なんとなく眠れずに話し相手もいないので無駄なことばかり考え時間を持て余していたのだが、これから自分にやるべき仕事があると意識する時間になった途端急に眠気が増すのは何故だろう。……単なる睡眠不足か。欠伸の代わりに深呼吸してみる。今日も空気が美味しい。
寝てもいけないし起きていてもやることがない暇な時間をぼやぼやと遠くを眺めて過ごしていると、待ち人が来た。
「おーい、ケータロウやーい」
のどかな草原によく通る声が響く。
「弥生さん、俺はここだ」
バサバサと自ら音を鳴らして場所を知らせると、すぐに人影は俺の前に現れた。
「お、えらいなー、今朝も起きていて」
「それはこの時間に起きていねぇとお前が俺をしばき倒すからだろう」
「私の躾が効いたんかなー?」
「アレはしつけと呼ばない。純粋なる暴力と呼ぶ」
「えらいぞーケータロウ」
「だからその名前安易過ぎてイヤだって言ってるでしょうが弥生さん」
「ん? どうした。あ、早く出して欲しいのか」
「違うんだけど」
「今出してやるからなー」
ピンクのシャツにパンツという、牧場スタイルの模範ともいうべき格好をしている弥生さんが、腰を屈めて臀部のポケットを弄る。ジャラッという音を鳴らして錆付いた鍵を取り出した彼女は、俺を閉じ込めている囲いに掛かった南京錠を外して戸を開けた。
「よし、今日も元気よく行って来い! ケータロウ!」
「あのさ弥生さん」
「さー私も今日も一日頑張るかー」
声を掛けた途端振り返って伸びをしながらやたらハキハキ声を出す彼女に俺の声は届いていない。ああまた通じなかった。おかしいな、前代の牧場主――弥生さんの御婆さん――とは話せたのに。仕方なくいつもの仕草をしてみせようとするが、今日は寝不足もあって気分が悪く、反逆も兼ねて俺はその場に留まった。
もしこれで気付いてくれなかった場合はどうしようか等と考えていると、動きのない気配を感じ取ったのか彼女が振り返る。
「どうした? ケータロウ」
数歩歩いた足を止め、また此方に歩み寄って屈む。見下ろしてくる顔は素直に「心配」の二文字を表していて俺は心の何処かで安心する。さて、ようやく巡ってきた鬱憤を晴らすお時間だ。
「もうやめたい、この仕事」
「どっか体調でも悪いのか?」
「いや、そうじゃない。いや、そうだ。この仕事のせいで俺はほぼ毎日寝不足だ」
「元気はあるみたいだな」
「毎朝毎朝したくもない仕事を押し付けられてもううんざりなんだ」
「……もしかして」
「そうだやりたくないんだこんなこと! 俺がやる必要もないんだよ! 目覚まし時計で充分だろ!」
「ケータロウ、太った?」
「何故そうなる」
弥生さんの女性らしい細い指が俺の身体を突く。あ、なんかくすぐったい。
「腹をつつくな」
「確かにちょっとプニプニしてるね」
「年頃の心を傷付けてそんなに楽しいか」
「これじゃあケータロウあの坂から転げ落ちちゃうかもね」
「そんなことはあるめーよ」
「……どうしよう」
「どうするもこうするももうこんな古臭い慣習終わりにして下さい」
「よし」
そう呟くと弥生さんは俺を抱え上げて、無言で近くの坂を上り始めた。
朝陽が徐々に顔を出し、辺り一面を光らせる。
「今までケータロウの為にわざと運動させてきたけど、それでもダメだなんて相当食いしん坊の困ったさんだねアンタ」
「アレはやっぱりわざと手を貸さなかったのか。というか降ろせ降ろして下さい」
彼女の足ではあっという間に目的地に到着し、無事降ろされた俺は遺憾の意を露にした。バッサバッサと音を立て、相手を威嚇する。すると弥生さんはパッと花が咲いたように笑顔になった。
「元気いーなーお前は」
「いい加減話を聞かないと砂塗れにするぞ」
「いつもいつもありがとうな」
「今更感謝の意を述べたってもう」
「ケン爺ちゃんもこの間お前に対してそう言ってくれていたよ」
誰だそいつ。そう気になって思わず動作が止まった。弥生さんは思い出して懐かしむようにはにかんで話を続ける。
「昨日会って話したときに言ったんだ、『お前の家の子はよく通る元気な声で鳴くから朝から目覚めが良い』って」
昨日、ケン爺……思い出した。あの、毎日搾り牛乳を受け取りに来る頑固ジジイか。
「隣の家のトベさんも、その隣のワタナベさんも、みんなアンタの声で起きているんだって」
全員常連の元々寝起きの早いジジババばっかりじゃねぇか、と落胆して思った。でも悪い気はしない。自分の声を聞いて快く感じていてくれる人がそうも居るとは、今の今まで知らなかったのだから。
「アンタ、凄いねえ」
しみじみと弥生さんが言う。
「みんなアンタの鳴き声で一日を始めるんだ。アンタはみんなの日常の幕を上げる、大事な仕事をしているんだよ」
ゆっくりと、俺の目が覚めた。そうか、そうだったのか、弥生さん。俺は、人の役にちゃんと立てていたんだな。
顔が赤くなっていやしないかと、しなくていいであろう心配をする。腹の底から、エネルギーが湧いて出てくる。
「さ、とっくに陽は昇ったよケータロウ。いつものあの声を、聞かせておくれ」
にんまりと笑んだ彼女はそうして、俺の頭を数回撫でた後坂を下っていった。
残された俺は、聞かせる相手も居らず一匹でごちる。
「……まったく、あの人にあの孫ありだよ。本当に、死んだ御婆さんに似てやがる。お節介も、変なこだわりも。無駄に元気なところもだ。まったく、やれやれ、手の掛かる。さあそんな娘っこの頼みだ。仕方なく今日も引き受けてやるか」
日常という舞台の緞帳を上げようと、大きく息を吸い込ませる。
コケコッコーと鳴く声が、辺り一面に広がった。