僕らは

銀さんが泣いているところを、僕は見たことがない。

あの人は恐がりだから怖いCMを見たときや怪談話を聞いた時は目を見開いて震えながら少し目尻に露を浮かべたりすることはあるのだけれど、痛い、や悲しいや辛いといった感情で泣いているだろうところを僕はこんなに長い年月一緒にいるのに一度も見た覚えがなかった。
それにあの人は、僕らがいないところでこっそり泣いている気配がする人でもない。
じゃあいったいこんな気持ちになった瞬間は、どうしているんだろう。
そう考えていると、またひとつ涙が零れた。

最初は落ちるまいと睫毛に乗って必死に保っていた表面張力は、ひとつするりと抜け出すやつが出た途端に脆くなり、徐々に流れていく速さも量も増えていった。
僕も昔は泣き虫だったけど今は堪える時はちゃんと堪えられるようになっている。なのに今は抑えられない。抑えるという気持ちも、最初だけ意固地に強くて一度流してしまうともう緩くなってしまって、いっそのこと全部流してしまった方がいいだろうと自分に提案してみてしまう。でもそれは状況によって変わると僕は思っていて、一人の時なら分かるのだけど、今目の前には銀さんが居るのだ。
それでもとめどなく溢れてしまう。姉上の前ではきっともう僕はこんな風に限りなく無抵抗で泣いたりしない。銀さんの前でもそのつもりはなかったのだけど、僕が今そうなのは恐らく突然の感情の波に僕が戸惑っているからだろう。そういえば、涙を流すときってこんなに冷静に何かを考えられたっけと思う。
ソファで足を組んでテレビをぼんやりと見ていた銀さんも、僕の様子に気が付いて若干戸惑っているようだった。そこには目に見える変化も分かりやすい言葉もまだないのだけど、さっきまで死んでいた眼が本当に少し見開いている。戸惑う前にまず驚いて、それから僕の経過を静かに眺めていてくれているように見える。その視線に恥ずかしさが生じて、僕は俯いた。やっと何か口に出さなければいけないと思って声を出す準備をする。ここまでの間十秒か十五秒。僕にしては少し鈍い。

「あの、すみません、突然」

最初に謝るのが僕の癖だ。それから笑おうとするのだけど、どうしても上手くいけた自信がない。銀さんは困ったように口元を引き攣らせた顔をして、どうした、と聞いた。
「いや、僕にもちょっと」
わからなくて、と言おうとして躊躇する。心当たりはあったからだ。なんでもないと言ってもこの状況で嘘だとばればれだし、対したことじゃないも同じだろう。そう思って口に出しかけた言葉も結局最後まで紡ぎ出せず、今日は本当に調子が悪いと思い知らされる。沈黙になった。僕が苦手な空間だ。
僕の涙はとっくに止まって、銀さんはまたテレビの方に身体を向けてぼんやり画面を眺め始めた。さっきとは違うところは、画面にあまり興味がなくてぼんやりとしているのではなく、意識が僕に向いているから耳を傾ける相手が変わったことだ。その態度に有難いと感じる。おかげで、もう一度口を動かす勇気が出来た。
「幸せそうでしたね、今日の依頼主さん」
少ない手掛かりを持ち両親を探してくれと頭を下げて頼む青年が万事屋の玄関に現れた二週間前。僕らが走り回って情報を集めた十二日間。やっと目星がついて御二人に会えた昨日。そして依頼主の家族が無事再会できた今朝の事を、濃縮果汁のようにぐっと思い出して飲み干す。
そうだな、と素っ気ない返事が聞こえた。顔は未だ昼下がりのバラエティー番組の再放送に向いたままだ。
「なんか……僕も二人のこと、思い出しちゃって」
「おめーのとーちゃんとかーちゃんか?」
「ええ、といっても、僕は母上との思い出はほとんどないし、父上との思い出も、オセロくらいしかありませんけど」
酷い話をしている、と思った。よりによってこの人の前でだ。大半の人よりは少ないにしても、この過去を話したがらない上司よりかはまだ僕の方が多い。ただ、その事実は相手より優越だと思えることでは決してない。やっぱり僕にとっては「人より少ない」に変わりはなかった。

「羨ましかった、です」
ごく当たり前のように、いやーあの子の家新しいゲーム買ってもらえて羨ましいなーくらいに軽い感じで明るく言おうとしていた言葉を搾り出すことに、僕は物凄く四苦八苦した。初めから言っちゃあいけなかったんだと、言ってから思う。声が掠れているのも、もう一度厚い膜が張り始めたことも分かっていた。
銀さんが機械の電源を落として此方を見た。顔を上げて瞳を見つめたけど、相変わらず「死んだ魚の目」と揶揄される濁った半円がある。この瞳の中に何があって誰がいて、外の何をみているのかを僕は全然知らない。吸い込まれそうになって、世界が滲んで、唇を噛んで下を向いた僕は紛れもなくどうしようもなく子供だ。
頭に重さがかかる。ぽんぽんと優しく二回叩かれた後、わしゃわしゃと髪を掻き回された。それがあんまり原形を保てなくなる強さだったから、僕は慌てた。
「っわ、っわ、銀さん、」
「……ぱっつあんよ」
「ハイ?」
「たまにゃ泣いたっていいんだぜ」
え、となって表情を窺いたくても、手の圧力が遮る。
「男だ女だは今は関係ねーよ。泣きたいときは腹から声出して泣きゃァいい」
撫でられるというよりは手のひらをぐりぐりと押し付けるように体重をかけられるけれど、それほど重たくない。指先で後頭部を擦られて、心臓と眼の奥が同時に熱いもので満たされる。
父上、と掠れた声で呼んだのは、何時以来のことだろうか。葬儀が終わって暫く経っても、僕は姉上の前で愚図っては、会えない人を連呼して目の前の唯一の家族を困らせていた。
「会いたい」
虚しいだけだと思っていた言葉が、温かいものに今聞こえたのは何でだろう。眼鏡を外して、目元を何度擦ってもだばだばと涙は溢れて止まらない。
被さっていた手のひらが外れて、持ち主の袖口にしまわれる。持ち主が面倒くさそうに僕の隣にドカッと座る。僕は湯呑を片手で包んだまま、完全無抵抗に雫たちを自由にさせている。
「あの、すみ」
「謝んなっつの」
「す、すいません」
銀さんが盛大に溜息を吐いた。街中を歩いていると目の前に迷子になって大泣きしている子供を発見したような顔だ。僕の持っている湯呑を引っこ抜くと一旦台所の方へ消える。
鼻の下もぐずぐずに濡れて、ティッシュを探していると戻ってきた銀さんが無言で指差した。お礼よりも先に謝罪の言葉が口から出る。ほらよ、と机の上に湯気の上る緑茶を出されて、また謝罪。銀さんが呆れたような顔でソファに座って背中を擦ってくれたときに口を開いて「す」と発音したら、指先で頭を小突かれた。落ち着いて考えればいつもこの部屋を掃除している僕が小物の位置を分からなくなったなんて、一体どれだけ頭の中も溶けたんだと幾分冷静になった。
銀さんの淹れてくれたお茶を啜る。温かくて落ち着いた。
感情が溢れて排出する行為は、冷静になればただ涙を流す作業に変わる。銀さんは流せるだけ流せばいいと言ったので、捻った後閉めた蛇口から落ちる水がなくなるまで待つように、静かに待った。

「もうこんな時間になっちゃいましたね、銀さん何か食べたいものありますか」
「あー…いいわ、今日俺がやる」
「え、でも今日僕の当番ですし」
「いいって、座ってろ。どーせ落ち着いたってまたどっと来るんだから」
確かにさっきから何度も潮が引いては、また感情の波が押し寄せる繰り返しだった。おかげで鼻は赤くなっているし、目元も痛い。
「いいですよ、僕やります。それに、何かしていた方が気が紛れるだろうし」
「あのなァ、気紛らわしたってそんなの応急処置にすぎねェんだよ」
「でも、」
「いいんだっての、神楽も帰ってこねーし、泣けてくるんだったら好きなだけ垂れ流してろ」
銀さんの言葉の途中で、万事屋に続く鉄階段を踏む足音が聞こえた。音は軽快そのもので、鼻歌なんかも聞こえてくる。神楽ちゃんだ。
僕が急いで頬に残った跡を拭いている間に、玄関の戸口が開いて元気な声が居間にまで響く。
「たっだいまヨー」
ティッシュで埋め尽くされたゴミ箱を部屋の片隅に戻そうと立ち上がった瞬間に、居間に赤いワンピースが現れる。
「何してるネお前ら」
ズンズンと此方に向かって歩んできた少女は僕の持っていたゴミ箱を発見し、怪訝な表情の後にたりと意地悪く笑んだ。
「しんぱちー、こんなにティッシュの山つくって私の居ない間に一体ナニしてたネ」
「ちょ、誤解だって神楽ちゃん!」
このままじゃとんでもない大嘘を言いふらされると僕があたふた弁解しようとすると、神楽ちゃんの返しが来ないことに気付く。どうしたんだろうと思って僕が動きを止めると、神楽ちゃんも動きを止めて一点を見つめていた。というか、僕の顔を凝視している。
「新八?」
神楽ちゃんの顔がすぐ傍まで迫る。色々僕がどきっとすると、神楽ちゃんは、怪訝で不安そうな顔をした後、納得したように微笑んで、少しだけ嬉しそうに、安心したように笑った。
そして。
「新八もまだまだ子供アルな」
少女の僕より小さくて白い手が僕の頭を撫でて、それから離れていった。僕はと言えば、状況がよく分からずにぽかんとしている。
「あ、銀ちゃんただいま」
「おっせーよ、どこまで遊び行ってんだ」
「缶蹴り夢中になってただけアル。いっぱい動いたからお腹減ったネ」
「今日当番新八じゃなくて俺に代わったから。なんか食いてーもんあるか?」
「断固カレーアル!帰ってくる時にお隣さんの家から魅惑的な香りが漂ってきたネ!」
「あーはいはい分かったから」
銀さんが台所に入っていく。神楽ちゃんにちゃんと手を洗うように言って、洗面台に行ったところを見て僕も台所に向かった。
「あんなことするなんて、よっぽど僕より大人ですね、神楽ちゃん」
アンタに似たんじゃないすか、と僕が冷蔵庫の中身を取り出している銀さんに言うと、「そうかァ?」と疑問の声が返ってきた。
「おめーに似たんじゃねーのアイツ」
「なんでですか?」
「アイツが落ち込んだときのてめーの顔見てみろ」
そう言って、立ち上がった銀さんの顔を一瞬窺う。気のせいだろうか、珍しく嬉しそうな笑顔だった。