あの物語の
彼女にとって一匹のその魚はとても大切な友人でした。
比較的裕福な家庭に生まれ育った彼女はたくさんの愛情に囲まれながらすくすくと成長し、美しく愛らしい容姿と知的な感性を持った娘になりました。
彼女がまだ幼い頃、彼女が一番大好きだった場所は自分の部屋でした。彼女の好きな可愛らしい桃色で彩られた装飾品、ふかふかのベッド、綺麗で大きな鏡、そして、この部屋の何よりも美しく上品な一匹の魚。彼女はこれら全てが置いてあるこの部屋が大のお気に入りで、いつもこの部屋の中で過ごしていました。彼女は、ひとりで居てもおかしくないこの部屋が一番落ち着く場所であることを知っていました。彼女は、友達がいませんでした。
いなかったのではなく、できなかったのです。彼女は自分に自信を持つことが苦手でした。どんどん引っ込み思案になった彼女は必要な時以外は部屋から出ることを避けました。そんな彼女を気掛かりにしていた者は大勢いたのですが、唯一放っておけずに彼女に自信を持たせ外に引っ張り出そうと行動していたのが彼女より少し年上の使用人でした。
彼女は部屋にいる間、ずっと水槽の中で泳ぐ魚と話していました。その魚は彼女が生まれる数十年前から彼女の家に飼われ続け、数百年間生き続けたままのとても貴重な魚だと言われています。その魚の名はルピナスといいました。彼女が名付けたのではなく、彼女はその名前を知っていたのです。彼女とルピナスは昔からの、それはそれは昔からの親友でした。
彼女がまだ少女だった頃、部屋に戻るとそこには張り詰めた空気が流れていました。少女が開け放したままにした窓から猫が侵入し、水槽によじ登って今にもルピナスに襲い掛からんと手を伸ばしていたのです。少女は急いで水槽に駆け寄ると力一杯猫の手を叩きました。手を離しすとん、と床に着地した猫は怒って少女に飛び掛ります。騒ぎの音を聞きつけた使用人と両親がやってきて揉みくちゃになりながら猫と格闘していた少女を止め、訳を聞きましたが少女は何も言いませんでした。というか、何も言えなかったのです。
結局うやむやになりながらも事態は収束したとして大人たちが去った後、少女が心配そうに水槽を覗き込むと、そこにはいつもと変わらずに優雅に泳ぐルピナスがいました。
『ありがとう』
ルピナスの声にどういたしましてと少女は返し、大丈夫だった? と訊きました。ルピナスは心配そうに優しい声色であなたの方が心配よ、と言いました。そんなやりとりをして、少女もルピナスも微笑みました。これが、最初に彼女がルピナスを救った話です。
彼女の恋を熱心に応援してくれたのがルピナスでした。引っ込み思案であるが故になかなか思いを告げられない彼女を何度も何度も励ましては、一緒に悩んでくれました。
ある日のこと、彼女にしつこく求婚してくる大富豪の息子が、ついに究極の手段に出ました。彼女のいない隙にこっそりと盗み出させたルピナスを交換条件として持ち出したのです。彼女が婚約を拒めば、この魚を何処かに売り払うとルピナスが入った水槽を抱えながら高級なスーツを着た男性は高らかと宣言しました。その男性はルピナスがとても高い希少価値を持っているため高値で売れることも、彼女の一番の親友であることも把握済みでした。男の汚い手に家の住人が戦慄く中、突然、男の手によって囲まれたルピナスが暴れ出しました。男が驚いて警戒を緩めた瞬間、彼女は咄嗟にその手に飛び込んで水槽を奪い返しました。怒り狂った男は彼女に向かって腕を振り上げます。その時でした、彼女が密かに恋い慕っている優しくて面倒見の良い使用人の青年が、身を挺して彼女を男の拳から護ったのです。今度は男が戦慄く番でした。大勢の使用人たちににじり寄られた男は尻尾を巻いて逃げ出し、それ以降彼女の家には寄り付かなくなりました。それからのことです、彼女が勇気を出してその使用人に告白をしたのは。使用人は初めとても驚いた表情をしましたが、すぐに嬉しそうに笑顔で答えをくれました。二人は最初から両思いだったのです。事件のあったおかげで両親も快く使用人との交際を認めてくれ、晴れて彼女の恋は実りました。彼女が真っ先にお礼を言ったのはルピナスでした。彼女の恋の成就を最も喜んでくれたのもルピナスでした。
『本当に嬉しい。本当に良かった。今度こそ、あなたの恋を叶えさせてあげたかったの。もうあなたのあんな悲しい顔を見たくなかったから』
ルピナスは涙こそ流しませんでしたが、本当に泣いていそうな声でそう言いました。もしかしたら、水に紛れてしまっただけで、ルピナスは本当に嬉し涙を流していたのかもしれません。
恋の実った彼女は性格も明るくなり、自分に自信がついて積極的に人と関わるようになりました。元々人に好かれる優しさと聡明さを持った彼女は少しずつ大切な友達を増やして、以前よりも華やかな毎日を送るようになりました。
それでも、彼女が最も好きな場所はルピナスの居る、自分の部屋の中でした。
寝る前にその日の出来事をルピナスに話して、楽しく笑いあうことが彼女の大事な日課でした。
ルピナスはいつでも彼女の味方でした。ルピナスはどんな時も彼女のことを優しく愛してくれました。
そんなルピナスが、死んでしまいました。
ルピナスは、彼女の、大昔からの、それはそれは昔からの大切な友人でした。
生まれつき声の出せない彼女が口を喋るように動かすと、ルピナスはぱくぱくと口を開閉させて、彼女にとっては随分と懐かしい言語で言葉を紡ぎました。
今も瞳を閉じれば、あの温かい言葉が浮かび上がってきます。
『大丈夫よ人魚姫、あなたは強い子だもの』
ルピナスは、自分よりも先に死んでしまった彼女のことを、ずっとずっと待ち続けて、今度は、彼女よりも先に死んでしまいました。
ルピナスの息が絶えた日、彼女はうろたえることはありませんでした。ただ、目の前で水面に浮かんでいる一匹の魚の、一個の生命の終わりに深く哀悼の気持ちが湧き、静かに涙を流しました。
その数日後のこと。彼女は水を張ったままだった水槽を眺め、水を取り替えようと水槽に近付きました。――水を換えるわよ、ルピナス。
そこで初めて、彼女は気が付きました。そして、激しく涙を流しました。大切な友人の死と二人の間の別れをそこで初めて実感しました。時が気持ちを落ち着かせるまで、彼女が泣き止むことはありませんでした。
あれから数年が経った今も、彼女はふとした瞬間に誰でもない空間を見つめ口を動かし、そっと瞳を閉じます。彼女の中には今も、あの温かくて優しい声が響いています。