イツツの物語

転生センター

殻から抜け出した途端拍子抜けするほど軽くなった身の重さにようやく慣れ始めた辺りで、少しずつ前世の記憶も甦り始めた。そうして全てを胸の内に収め、改めて振り返れば余計に今までが愛しく感じられる。男が感慨に耽っていると、男の魂は定められた軌跡を従順に辿って自然とある場所に降り立った。景色を見渡して直ぐに以前来た覚えがある場所だと分かる。現実離れしている浮遊感と幻想感――そう感じて男は気付いた。そうだ、此処が今ある現実なのだと。落胆は微塵もなく、逆にしみじみとした気持ちで受付のある方を眺めていると声を掛けられた。
「お客様」
神秘的な雰囲気を身に纏う青年が立っている。君は、と言葉を言いかけると青年は「覚えておいででしたか」と笑う。男は見覚えのある笑顔で以前自分を送り出してくれたのはこのスタッフであったことを確信した。施設の一スタッフである青年は恭しく礼をして続ける。
「改めてご挨拶申し上げます。この度は弊社の『転生サービス』をご利用頂き、誠に有難う御座いました。初めに説明した通り当サービスをご利用下さったお客様は死後自動的に此処、『転生センター』へ御帰還する仕様となっております。まずはあちらのスペースにてゆっくりと御寛ぎ下さい」
示された場所の席へ着くと懐かしい香りが鼻腔を擽った。香ばしい豆を挽いた匂いを漂わせる飲み物を差し出される。見かけだけですけどね、と見た目相応に意地の悪い顔で青年は言った。恐るおそる口に運ぶと、なるほど、確かに味はするが胃に溜まる心地はしない。久しぶりの風味に、牛乳の方が慣れていたかなと少し冗談混じりに言うと青年の口から笑い声が漏れた。そちらの方がよろしかったでしょうかと笑みながらの問いに柔らかく否定する。男はコーヒーの味には煩いが、今含んでいるそれの味をとても気に入った。不思議なことに懐かしい、若かりし頃の妻の淹れてくれた味がする。疑問をそのまま訊くと、青年は種明かしをするように説明した。
「此方のスペースはお客様の二つの生前に纏わる品物を取り揃えております。御要望があればすぐにでも持って来させるようにスタッフが控えておりますので、何なりとお申し付け下さい」
「何故、そこまで」
「言うまでもありません、此処がお客様の魂が二つの記憶を持つ最後の場所だからです。お忘れのようなので、今一度ご説明申し上げます。全ての生物は皆一つの魂から存在します。魂はそれぞれあらゆる形(かた)に入り自我を形成していきます。魂は言うなれば永遠の物ですが、形自体には必ず寿命があるのです。通常の魂が保有できる最大の形の記憶数は二つまでです。これがどういう事かお分かりでしょうか。この場所を出たあなたはもう形を忘れたただの魂に戻ります。次にあなたが何として生まれ変わるかは神の決めることです。人生一を終えると新たな形で人生二が始まり、その後リセットされると例えると分かり易いでしょうか。付け加えますと、当センターが行えるサービスはこの人生一を終えた純粋性の高い形を持つ魂の人生二をどのような形でどのような場所から始めるかをサポートする役割を担っています。以上の説明で分からない箇所はございますか」
流暢な業務用の、しかし柔らかい口調で話をする青年の目が窺うように男の瞳を見て話を止める。男は、一つの魂に宿った今の『人間の男』の心は、自分の置かれている状況を悟り始めた。それはとても切なく、寂しくも悲しくもあり、また穏やかでもあった。『犬』であった時の心も同様にそれを感じ取っていた。
「自分の持っている記憶の全てが自分自身と共に消えてしまうことは分かりました。気になるのは」
「何でしょうか」
「純粋性、とは一体」
「端的に言えば、自分以外の存在を想う心の純度のことを此処では指しています」
勘違いをして来る方が多いのですけどね、と苦笑いをして青年は説明した。
転生センターは、『本当の愛さえあれば、何にだって変われます。』を謳い文句としている。この文句をよく見ていなかったり自分の都合良く解釈して訪れる客が多く、そのほとんどがニンゲンであると言う。天の国と地の獄の中間に位置するこの施設は、基本的に上下どちらから来た魂かは問わない。前世にあまりにも酷い行いをした者はまず施設の位置まで昇ってくることすら出来ないというのが前提だが。施設に訪れると最初に審査を受ける。この時点で門前払いされる者が少なからずいて、その理由は施設の意にそぐわない野望を持って現の世へ生まれ変わろうとするからである。この施設は一見ありとあらゆる野望や願望、欲望を叶えた状態で転生させてくれる場所だと思われがちなのだが、実態はそんな万能なサービスではない。そう言って青年は可笑しさを感じたように目を細めた。
「当施設がサポートさせていただく願いはただひとつ、現世に残した愛するものとの再会です」
前世の記憶を予め抹消して転生させるのだから、それ以前にあった野望や願望、欲望を叶えるのは無意味も同然なのです、と青年は言う。
男のような、不幸にも突然の事故で別れてしまった愛する妻や子供の傍へ、もう一度寄り添いたい。そんな切実で純粋な願いを持った者だけが、客として扱われ施設のスタッフが全力でサポートしうる対象となる。そうして、『ヒト』であった男は『イヌ』として生まれ変わり自分の息子宅に飼われる人生を歩んだのだ。
青年は言う。「『前世の記憶をなくした状態では、そこには何の目的もないし目論見もない。あるのは、ただ、“もう一度あなたの傍にいたい”という想いだけだ。』 当施設を設立したある神の仰った一言です」
質問は以上でよろしかったでしょうか、と青年は問う。男が頷くと、青年は何処からともなく分厚い冊子を取り出した。表紙には利用者名簿と書かれており、外からは絶対に中を覗き込むことは出来ない外装になっている。
「それではお手数ですが、アンケートにご協力願えませんか」
「アンケート、ですか」
「はい、当施設ではサービスの質向上に役立てる為に、ご利用の終えたお客様の感想や意見を記録しています。簡単な質問だけですので、直ぐにでも終わらせられます。その後私は退席して、あとはあなたの自由です」
男は快く承諾した。
「では、あなたが転生した人生で一番心に残ったエピソード等をお聞かせ願えますか」
男は迷った。ついさっきまで過ごした犬として生きた人生の記憶は濃厚で、直ぐにでは一番だと言える思い出が判断できない。困惑する男の顔を見て、一番とも言わず今頭に浮かんだ思い出でもいいですよ、と青年が助け舟を出す。男はある一つの記憶を思い出した。
「――年老いた妻や就職も結婚もして立派に育った息子に愛犬として可愛がって貰えた記憶も勿論心に残っています。ただ、僕が死ぬ間際に息子の子供、つまり僕の孫が温かい手で僕の身体を撫で続けてくれたことが本当に嬉しくて……なんでか、すごく懐かしい感じがしたんです」
胸が締め付けられるようにさえ感じられた温かさを思い出し目に膜を張った男の話を聞いて、青年が何かに気が付いたように冊子を捲る。そしてある頁と頁を見比べて、驚いたように瞳を瞠った後、一言呟いた。
「珍しいこともあるものですね」
何がですか、と男が訊く。青年は男を見つめ、これは守秘義務があるので詳しくは言えませんが、ヒントだけでも、と、喜びと優しさを含む柔らかい表情で笑んだ。
「あなたが人だった前世に、愛犬がいたことを覚えておいでですか」