翌日英雄が三野に会ったのは昨日と変わらない住宅地の中であった。
白シャツに白のジャンパーを着た三野を目撃した途端、英雄の胸中には無数の疑問符と一種の怒り、それと不快感が湧き上がった。先に口を開いたのは三野だった。
「どうして休日のこんな時間にいるのかな英雄くん」
「それはこっちの台詞だ」
どうして三野がここにいる。一旦引き返してまた別の機会に今日の予定を実行する手もあるが、こいつに見つかれば言い逃れは出来ないということを英雄はよく理解していた。
そしてそれは三野もよく理解している。「先に英雄が俺の質問に答えてくれたら教えてあげる」
英雄は一瞬黙った。最適な方法が通り抜けられる抜け道は既に塞がれてしまった。実の所、これは三野にばれたってあまり支障は起きない。英雄は溜息を吐いた。
「新谷教授の研究室を調べに行く」
「ビンゴ!」
「は?」
パチン、と指を鳴らす音と英雄の抜けた声が、朝方の乾いた空気に響き、溶けて消える。つまり、だ。
「予想的中。英雄ならそう来ると思った」
「三野、お前……」
英雄の言わんとしていることは分かっているかのようにジャンパーのファスナーを締めながら三野は言う。「勘だよ」英雄は急に無気力な気分に襲われた。
「もし、俺が来なかった場合は」
「普通にそこら辺ジョギングして帰ってったよ。此処ら辺、毎日歩いてるし」
出鼻を挫かれるとは恐らくきっとこの事だ。出だしがこれでは、一体自分が何の為にこんなことをしようとしているのか有耶無耶になっていく。
気を取り直して英雄は歩き出した。
「くれぐれも気付かれんなよ」
「あいあいさー」
結局また三野と帰る破目になる。気掛かりはそこだけで、いよいよ目的を見失いそうになり英雄はこめかみを押さえつけた。
結果から話すと、収穫はゼロだった。
そもそも、確実に何かがあるという根拠すら無かった為、それほど落胆はしなかった。
大学内に忍び込み、研究室の鍵をピッキングする、全てが初めてのことだったが、全てが難なく進むことが出来た。あまりにスリルが無さ過ぎて英雄と三野が残念がる位には上手く事が運んだ。無論、収穫が何も無かったのでそれらは全て水泡に帰したのだが。
「うわぁ、本ビッシリ……」
研究室に入って三野が発した第一声がそれだった。
壁際に並ぶ本棚にはたくさんの本が並び、サイズ順にきちんと整頓がなされていた。
「あ、漫画もある」
屈まないとよく見えない低い位置にある漫画コミックの背表紙を目敏く見つけて、三野が楽しそうな声を上げる。
「綺麗すぎるほど整頓されているな……」
室内を見回し、英雄が感嘆の声を漏らした。
「動かした物はちゃんと元の位置に戻せよ、三野」
注意を呼びかけてから早速物色を始める英雄の背に、三野の声が当たった。「ねえ英雄」
「なんだ」
「これってさ、一体何の為にするのか確認していい?」
英雄は黙って振り返った。はっきりとした声が響く。
「英雄は一昨日、『此処』で何かを『見た』んだよね?」
夢と言ったのが嘘だったというのが、ばれていることは薄々英雄も予想出来ていた。でなければ、三野が今日此処まで着いて来る理由が不明確だ。
「ああ、見た。死体を」
過去の記憶を思い浮かべて話す英雄の瞳の色に、三野は少したじろぐ。英雄は続ける。
「新谷教授のだ。そして、その翌日彼は平然と生存していた」
「……それって」
三野が明らかに動揺しているのが見て取れた。自分だって、目撃してしまった瞬間のことはよく覚えていない程、衝撃的な事実を見てしまったと強く感じていた。
「アクター、かもしれない」
英雄は、自分の唇が小刻みに震えていることを自覚していた。呆然と、三野はその場に立って微動だにしない。英雄は自然早口で話した。
「というか、それで決まりだ。だから、今日は何か『手掛かり』が無いかを探しに来た」
二人は黙々と丹念に部屋を調べ、双方諦めが付いた所で外に出ることにした。
互いに黙りあって歩道を進んでいく。段々と陽が射して景色が明るさを増し、気温が緩やかに上昇していく。小さな鳥のさえずりが上空から聞こえた。
隣にいる体温を感じ、英雄は三野を見た瞬間の不快感をぶり返していた。ごく当たり前のように三野は、今日も帰りに連れ添って歩くことを決めた。それが、英雄は腹立たしくてならない。
別に、俺と帰ろうが帰らなかろうがこいつの自由だ。
苛立ちに隠れたやるせなさや罪悪感を英雄は必死に意識しないように努めた。意識をしなくとも、体の軸は勝手に湿り気を帯びて傷む。
「そういや、」
三野の声が響いた。英雄が無表情のまま三野の顔を見る。
「優輝がさ」
「優輝が?」
「県大会を見に来てた大企業のスポンサーにスカウトされたって。さっきメールが来てた」
三野は淡々と状況のみを説明する口調で言った。恐らく自分のケータイにもメールが届いているだろうが、今聞いたので開く必要はない。「それで?」
「なんか、『君は数十年に一人の逸材だ。これから君の弱点を克服する為に私たちは全力でサポートする。一緒に日本一を、いや、世界一を目指そう』って言われた、って」
「いよいよ大量インフレの兆しが見え始めてきたな」
「でも、今お世話になっているジムに悪いから、って断ったらしい」
「……正しい選択だと思う」
「うん」
「まさか、そのジムにヒロインが?」
「『気になってる子もいるし……』って」
「当たりだな。近々強力なライバルが出てくるに違いない」
「世界王者とか?」
「そこはあまりにも飛躍しすぎだから、まずは日本王者、もしくは第二の期待の新人って所だな」
「本当に、ご都合主義な展開だよ」
「“少年漫画”だからな」
二人同時に息を吐いた。こんなことはおかしいと、誰から見ても思うに違いない状況が、今近場に存在している事実である。「仁美もかわいそうだよ」三野がぼやいた。
「《どう抗っても》主人公とその好きな男子が付き合うように出来ているからな」
「サブキャラの扱いなんて、結局は話の賑やかし程度にしかすぎないさ」
三野の言う説得力に、英雄は閉口することしか出来ない。
「“少女漫画”って酷だな」
「それはお前の偏見も入っていると思うぞ」
と言いつつも、さすがにあれではかわいそうだと思うのは英雄も同じだった。
分かれ道、英雄が立ち止まって三野を呼び止めた。
「家までついていこうか」
三野は即座に頭を振った。
「英雄は、俺を家に帰らせてから数時間後に毒死させたいの」
三野の声は結構冷ややかで、英雄を固まらせるには充分だった。
「もっと楽なパターンとかはないのか」
「ないね、段々と酷くなっていくから。時には、落下してきた鉄骨の下敷きになる」
冷たく、淡々と、透明な声で三野は言葉を発する。おぞましく、痛ましいと英雄は感じた。
「弾き飛ばされて意識が吹っ飛んじゃってからのが一番いいよ。少なくとも俺はそう思ってる」
爽やかな笑みを浮かべて三野は断言した。はっきりとした声が三野の一日の終わりを告げる。
「じゃあね、英雄。気をつけて帰りなよ」
二日後、講義を終えて構内の廊下を歩いていると、新谷教授に呼び止められた。
「佐藤、ちょっといいか」
「なんでしょう」
慎重な面持ちのまま新谷が声を潜める。
「研究室に入ったのは、君かな」
心臓がどくりと跳ねた。平静を装うには、数秒手遅れだったらしい。確信をついたとばかりに、新谷の口端がみるみるうちに吊り上って歪んでいく。
「一緒に、研究室まで来て欲しい」
「単刀直入に言わせてもらう、君はこの間、僕の死んだ現場を見たね」
新谷の瞳が、これまでの穏やかさを覆すように鋭い光を灯す。英雄は頷く他無かった。
「それで、それを、覚えている、と」
確かめるようにゆっくりと新谷が口を動かす。復唱するように英雄もゆっくりと唇を開く。「はい」
「……素晴らしい」
興奮して上擦った声で、新谷はそう呟いた。
表情や雰囲気だけでなく口調までもが変わってしまったところを見ると、これが恐らく彼の本性なのだろう。
「僕はこれまで何度も実験をしてみたが、今の今まで君のようにまるで取り乱さなかった目撃者は一人もいなかった。まさか、と思い疑っていたが、そうか、君だけがこの異変に加わることが出来る人物なんだな」
嬉々としている所悪いが、それは半分違う、と英雄は否定したかった。
確かに大袈裟に取り乱すことはしなかったが、内心は酷く動揺していたし、心拍数も急激に上がっていた。ただ、衝撃的すぎて言葉が出なかっただけだ。
そして、新谷の言う所の「異変に加わる」ことが出来るのは、探せばきっと、何も自分だけな訳ではない。
それよりも、英雄は、新谷の言葉の、とんでもないところに気が付いてしまった。
「教授、どうして――死んだ筈の人間が、目撃者の様子を確認出来るんですか」
そう問うと、教授は予想外といった表情をして、英雄の顔を見つめた。
「気が付かなかったのか佐藤、あれは、僕の『死んだフリ』だぞ」
ぷつりと、細いが、とても大切な線が切れてしまったような、そんな音が聞こえたような気がして、英雄は眩暈と悲観に襲われた。
英雄の様子を単なる驚愕だと見て、新谷は聞きもしていないのに事の経緯を話し始めた。
「ある日突然、研究室で僕は激しい眩暈に襲われて、目を覚ましたら腹部が血糊のような物で汚れた状態で床に突っ伏していた。仮死状態、に近いだろうな。それ以来、僕は意識を保ったまま、巧妙すぎる死体のふりが出来るようになったんだよ」
耳鳴りが止まない。早く目の前の口を強引に塞ぎこんで、本当に窒息死させてしまいたかった。
「僕はかねがね他人がしたことのないような研究をしてみたくてね。絶好のチャンスだと思ったよ。これは、神様が僕に与えてくれた人並み外れた業なんだと」
なにが神だなにがチャンスだ。
お前が貰った物はそんな希望に満ちた物とはかけ離れている。
お前が罹ったのは、「アクター」だ。
知らぬ間に、無差別に、突然に発症する、それが『理不尽な配役(アクター)』。
一般的に漫画内や映画内、小説内で起こる奇奇怪怪な事象が受け入れられるのは、それがフィクションであり、現実とは一線が引かれた世界で起こった事であるからだ。
物語とは、作り手が自らの手で登場する人・物を動かさなければ先には進まない。全ては作り手に委ねられて、登場する人物の運命は決まってしまう。
もし、その物語の中の登場人物の運命が現実の人間に定められてしまったなら。
ある種類のアクターに罹ってしまったら、その後は一生割り振られた事象が人生において繰り返されることになる。
発症した人間は《どう抗っても》その運命から逃れることは出来ない――物語のシナリオを演じる『アクター』を任されてしまう。
仁美や優輝のように自覚がなく、罹ったアクター自体に生命活動、または社会的立場から見て問題のない場合は、人生でただ平坦に幾度も、幾度もアクター特有の事象が起こり続けるだけで済む。(無論、この場合においても取り返しの付かないことになるケースは多種ある。)
三野や新谷の罹った、生命活動や社会的立場に関わるアクターの場合、例えば三野が死んだ後の世界は、午前十二時を回った瞬間に、三野の死に関わった周りだけが「リセット」される。三野を轢いた車の運転手も、それの目撃者も、三野の家族や友人、事故現場全てが三野の死をなかったことにする。死の記憶はアクターに罹った三野だけが保有し、結果、三野は誰にも知られずに延々と生と死のループを繰り返すことになる。
そしてアクターの特徴がもうひとつ。条件付けだ。
アクターは、罹り始めはただ突発的あるいは作為的に事象を起こすが、時間が経つにつれて、ある決められた条件が起こった場合のみに事象を起こすようになる。
新谷、お前もその内に条件が確定し、以後は死ぬまで、条件が揃うたびにそのループを繰り返し続けることになる。
今や全国に音も立てず広がりつつあるこの理不尽な病をネットで見かけたことが、新谷にはないのだろう。そもそも、これだけの本が揃っているのだ。ネットは普段使わない性質なのかもしれない。
この事実を新谷が知ったらどうなるか。結果は目に見えている。舞い上がった天国から急速力で、恐怖の地獄の底へと突き落とされるだろう。英雄は、新谷にこの事を伝える義理はないと判断した。それは至極私的な理由で、極論、とてつもなく怒りと反感と嫌悪を感じたからだった。
「実験の度に、僕一人だけでは力不足だと感じてね。どうだい、君、僕の助手になってくれないか」
吐き気を催しそうな要求が耳に届き、胸中からせり上がる不快感を外へ逃がそうと口を開く。
「一つだけ質問をしてもよろしいでしょうか」
やけに丁寧な口調で話題を少しずらす。
「なんだい」
「どうして、この教室に入って調べたのが俺だと分かったんですか」
新谷はやや見下したような視線で答えた。
「簡単なことだよ。この研究室には入り口とは向かい側の壁に隠しカメラが取り付けてある。それに、僕は本当に几帳面な性格でね、ほんの数センチ物が動いているだけで誰かが動かしたことなんてすぐに気付くんだよ」
質問はそれだけかい、と新谷が聞く。
「はい、失礼ですが、お断りします」
きっぱりとした声で英雄が答えた途端、新谷は残念そうな表情を作った。気迫のある声で英雄は続けた。
「先日此処で見た事は、今後一切他者に教えません。ですから、教授も今後は一切その話題を俺に振らないように、ご配慮お願いします」
新谷の返事を待たずに室外に出て、乱暴に扉を閉めた。
横を向いた廊下の先、今一番出くわしたくない人物が己を待っている姿が見えた。
事の洗いざらいを全て三野に説明した英雄は、すっかり焦心し切った顔で俯きながら道を歩いた。三野は複雑そうな表情で顔を顰めた後、「つまり俺の同類を見つけたと思ったら、ニアピンだったからそんなに落ち込んでるんだな」と確認するように呟いた。力なく英雄が頷く。
「別に英雄が気にすることじゃないだろ」
と、くっきりとした輪郭の声がそう紡いだ途端。英雄の押さえ込んでいた感情が堰を切ったように溢れ出した。
「気にしないなんて無理に決まってるだろうそんなこと。お前の死に俺が関わってないとでも言うのかお前は!」
最初は地に這うような低い声が唇の間を抜け、後半につれて感情が高ぶり叫ぶように三野を怒鳴りつけた。
三野は押し黙って英雄を見つめている。
「分かっているんだろう。なのにどうして、お前は自分から死のうだなんて考えるんだ」
「そうじゃない、俺はお前とただ帰りたくて」
「だから、それがなんでなんだよ! どうして俺と帰ろうだなんて思うんだ。なんで別れた後に必ず死ぬと分かっていながら俺と帰ろうとするんだ!」
「英雄が、大切な友達だから」
三野の発したはっきりとした声に辺りが静まり返る。他の歩行者はいない歩道の半ばで、息を切らせて肩を揺らす英雄と落ち着いた様子の三野だけが立っていた。
「え……」
「俺のループに唯一気が付いたのがお前だけで、俺、お前だけでも、気が付いてくれたことが、覚えていてくれたことがすっげぇ嬉しかったんだよ。隣に俺の苦しみを分かってくれる人がいるって思うと、安心するんだ。――死ぬって言ったって、一瞬意識が飛ぶだけじゃん。もう痛みにだって慣れた。そんなことくらいで、俺のこの大切な時間を、アクターなんかに奪われたくないし、取らせない」
アクターの思い通りになんかならない。
それが、三野の今までの行動理由の答えだった。
「お前……馬鹿なのか」
英雄は、驚き呆れ、思ったことをそのまま口に出した。
「そんなこと初めから分かりきったことでしょ」
三野が前を向いて歩き出した。英雄も慌てて半歩後を歩き出す。
白いセーターを着た三野が、分かれ道でいつもの言葉を掛ける。
「それじゃ、気をつけて帰りなよ」
そう言って英雄と別れた後、三野は飛び出してきたトラックに轢かれて死んだ。
英雄は、ある一つの決意を固めた。